新撰組の土方歳三ファンなら一度は訪れてみたい場所は五稜郭なのではないでしょうか?
土方歳三の足跡を辿ると行き着く先は函館の五稜郭です。なぜ土方歳三は蝦夷地に向かったのか?最後の戦いの舞台となってしまった五稜郭とは一体何なのか?誰が作ったのかなどを考えると五稜郭にすぐにでも、飛んでいきたくなります。
今回は、土方歳三ファンや歴史ファンでなくとも気になる星形五角形の五稜郭についてなんのために作られたのか?作った人は誰なのかを徹底調査していきます!
五稜郭はなんのために作られた?
土方歳三ファンとして、これまで関連する小説もドラマもドキュメンタリーを見て、日野の新撰組祭り、土方歳三資料館も行って、東京や京都の新撰組ゆかりのあるスポットも行って、会津も行き戊辰戦争のこともいろいろ調べました。そして函館へ行く!と決めてから、いざ五稜郭について調べると、興味深いことがたくさんわかってきました。
五稜郭の築城を指示したのは江戸幕府で、設計をした人は武田斐三郎です。五稜郭は、当時の最先端であるヨーロッパ式の星形五角形のお城です。なぜ、そのようなお城が築城されたのでしょうか?なんのためだったのでしょうか?
もともと北海道には、松前藩がありました。松前藩は、豊臣秀吉からアイヌ民族との交易独占を認められ立藩し江戸幕府時代は外様大名として、仕えていました。しかし、江戸後期に入ると、ロシア船の出没、黒船来航をきっかけに函館港を開港したことで江戸幕府は、函館奉行所を造り、松前藩が統治していた蝦夷地を直接管理し、防衛を強化します。箱館奉行所の任務は、諸外国との交渉、海岸防備などでした。
1864年 函館奉行所は、蘭学者でもある武田斐三郎が設計した五稜郭に防衛を強化するために、移転をすることになりました。五稜郭は函館奉行所を守る為に作られた、当時は最新鋭のヨーロッパ式のお城です。
この頃は、大砲で戦うことが主流となり、日本式の天守閣のあるお城は標的になりやすくなります。そこでヨーロッパ式の平たく、土塁で塀を作り大砲の砲撃に備えるお城が必要でした。五稜郭は、箱館奉行所を守る事で、江戸幕府を守り、それは日本を守る事にもなったのですね。
五稜郭を作った人は誰?どんな人?
五稜郭を設計した武田斐三郎という人物は、伊予大洲藩(現在の愛媛県)の出身です。大阪へ出て緒方洪庵に、江戸へ出て伊東玄朴に蘭学や医学などを学びました。他にも築城や航海術なども学び、浦賀に来航したペリーとの出会いへと繋がります。ペリーと一緒に北海道へも出向いていたそうです。
そして、江戸幕府から蝦夷地の函館勤務の命を受け、五稜郭の設計をすることになります。五稜郭と一緒に、函館港の防衛所として不等辺六角形をした弁天台も設計しています。この弁天台は砲台の役目を持っていました。弁帝台はとても精巧でしたが、後に解体され、現在は跡地に碑が立っています。
武田斐三郎は明治13年に54歳という若さで亡くなってしまいます。武田斐三郎がもし後悔するとしたら「もう少し内陸に築城していたら、砲撃の射程距離から外れていたかも」ということかもしれません。
五稜郭はなんのために作られた?作った人は誰なのか徹底調査!【まとめ】
今回は、五稜郭はなんのために作られた?誰が作った人なのか徹底調査をしてきました五稜郭は幕末の日本を守る為に築城されましたが、明治新政府軍と旧幕府軍との激戦地になりました。旧幕府軍には土方歳三もおり、この地で亡くなったと言われています。歳三さんに関わった人々がどこの誰なのかやスポットなど調べていくと、より理解が深まりそうですね。
五稜郭は、春は桜の名所として、冬は雪景色の中にライトアップされた幻想的な姿を見せてくれます。函館奉行所は復元をされており、資料館にもなっていますので、是非実物を見て、五稜郭の歴史に触れてみて下さいね。