北九州は古くは奈良時代より防衛など九州の要所として重要視されてきました。様々な武将たちがこの地を治め、小倉城にも多くの藩主が入城し城下町を制定してきました。現在は、博多方面の新幹線に乗れば、関門トンネルを抜けて九州に入ると左側にビル群に囲まれた小倉城を見ることができます。
今回は、時代の流れによって様々な歴史を歩んできた小倉城の城主、初代、歴代藩主、歴史を調査してきます。
小倉城の歴史 初代藩主は誰なの?
小倉城のある地域は、関門海城を押さえる九州の要所として欠かせない場所でした。奈良時代には軍事的要所として軍が置かれていた記録があり、鎌倉時代には多くの城が築かれていたようです。小倉城の地に最初に城を築いたのは諸説あり、緒方大膳重や菊池武光が築いたのではないか、と言われています。
室町時代になる小倉辺りは、大内氏や大友氏などにより合戦が繰り返しあったそうです。その結果、大内氏が治めることとなり、小倉城下の元になる形が生まれたようです。九州の要所ということもあり、みな狙いをつけて多くの奪い合いがあったということですね。
永禄13年(1570年)に高橋鑑種が小倉を居城とし、現在の小倉城本丸付近に造ったそうです。その後、豊臣秀吉の九州征伐が始まると、高橋鑑種の養子の高橋元種は秀吉に従うことになります。秀吉の九州平定が終わると、小倉城には毛利勝信が入城することになりました。毛利とありますが、元々は森勝信でしたが秀吉に毛利と改名を命ぜられたそうです。秀吉の時代まできて、既に多くの武将が小倉の地、小倉城に関わってきていますよね。
関ヶ原の戦いでは、毛利は西軍・石田三成について敗軍となったので土佐に配流されてしまいます。新たに小倉城に入城したのは、細川忠興の弟の細川興元でしたが、興元が大坂に出奔してしまい、結局、細川忠興が入城します。ということで、初代藩主は細川興元となりますね。
忠興は、小倉城を7年かけて改修、拡張を行っていきます。しかし、2代目細川忠利のとき、熊本城の加藤家が改易し、熊本城に移封してきます。忠利の後には、小笠原忠真(おがざわただざね)が入城し、約200年、10代にわたって小倉藩を治めていきます。歴代の藩主は安定して小笠原家となり、名前には全部「忠」という漢字が用いられています。
小倉城の最後の城主は代11代藩主、小笠原忠忱で、貴族議員なり明治30年に36歳で亡くなりました。振り返ってみれば、江戸時代になり小笠原家が藩主になってから藩主の交代もなくやっと落ち着きをみせました。
小倉城、明治以降
現代の小倉城は、2代目で昭和34年(1959年)に鉄筋コンクリート製で再建されました。初代は天保8年(1837年)に出火し天守閣は焼失し、再建はされませんでした。さらに、お城は第二次長州征伐の時に、幕府軍として必死に抵抗をしましたが敗れ、火を放って退去しています。
小倉城も幕末の動乱によって無くなってしまいましたが、現在は再建され、北九州市のシンボルとなっています。
北九州小倉城の城主は誰?初代から歴代藩主の歴史を徹底調査!【まとめ】
今回は、小倉城の初代、歴代の藩主や歴史について調べてきました。小倉の地域は奈良時代から合戦の舞台となるなど日本によってとても肝心な場所だということがわかりました。江戸時代になると、小笠原家になれば安定して藩主が幕末まで治めることとなりました。現在は、本丸一体は市役所を初めとする官公庁、大学などがあり、紫川から見える小倉城はとても目を惹き美しい姿を見せてくれています。
天守閣は平成31年(2019年)にリニューアルオープンされ、小倉城の歴史がわかりやすく展示されています。館内は巌流島の決闘フォトスポットがあったり、庭園には決闘シーンの銅像があって映える写真が取り放題です。城内はベンチもあってランチしたりお茶したりのんびりできますので、是非小倉城に行ってみてくださいね。