伊勢神宮の正殿が立ち入り禁止なのはなぜ?入れる人はどのような人?

三重県の伊勢神宮は、日本国内の神社の最高位です。

太陽神であるアマテラスオオミカミと、その食事をつかさどった豊受大明神を祀るため、内宮と外宮に分かれています。

アマテラスオオミカミは、全ての神社の総氏神であり、圧倒的な権威を持ちます。

伊勢神宮は、かつて持統天皇から明治天皇の代の間約1,000年もの間、皇族が参拝することはありませんでした。

現代においては、天皇が伊勢神宮を参拝することはあっても、正殿内部に神職以外が入ることはありません。

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伊勢神宮正殿とは?

一般の神社は「神明造」という建築様式にて建造されています。

伊勢神宮の内宮と外宮の工法は、それぞれのためだけの特別な様式である「唯一神明造」です。いずれも4重の垣の内側に鎮座しており、高床式倉庫のような形をしています。

わざわざ特別な様式を用いるほどに、伊勢神宮とは特別な存在であるといえます。

一般人は内側から4つめの垣の外、皇族は内側から2つ目の垣の外から参拝が可能です。

また、一般人でも寄付を行うことで、内側から3つ目の垣の外から参拝が可能になることもあります。この参拝方法を御垣内参拝(みかきうちさんぱい)といいます。

この正殿および4つの垣は、20年に1度「式年遷宮」と称して、神宮の敷地内で建て替えと付随するセレモニーが行われます。

伊勢神宮の正殿は立ち入り禁止はなぜ?

なぜ天皇が伊勢神宮正殿に立ち入り禁止なのかは、ここを紐解くことがカギです。

11代目の天皇に「崇神天皇」がおりました。

3世紀中ごろのこと、と言われています。

この時代の三種の神器は都の宮中にあり、崇神天皇は、「神のお告げ」により、八咫鏡と寝食を共にするような生活を送っていました。

しかしながら、世の中に戦や疫病が蔓延したことで、鏡とともに過ごすことを「畏れ多い」「距離が近すぎる」という考えに至ったことや、「周辺の他の豪族からの脅威があった」「他の豪族にまつわる祟り神だった」など諸説の理由から、八咫鏡を別の場所に安置させたい想いが強くなりました。

そこで孫娘である倭姫(やまとひめ)に託し、宮中から鏡を持ち出して東方の各所をめぐらせました。

巡った場所は関西地方で「元伊勢」という地名が残っていることが多くあります。

倭姫は20年近く彷徨った末、最後にたどり着いた伊勢で美味しいアワビを見つけたため、伊勢神宮に安置させることに決めたとされています。

天皇が千年にわたって伊勢神宮を参拝しなかった理由

伊勢神宮は、持統天皇を最後に、明治天皇の時代まで天皇が参拝することがなかったといわれています。

長年に及んで天皇が参拝しなかった理由は、神のお告げで鏡と「寝食をともにする」ことを勧められたのにもかかわらず、「畏れ多い」という理由であえて遠ざけていたからではとされています。

また、常にともに過ごすことで、鏡のパワーのようなものが衰える、という考えもあったようです。

式年遷宮は「常に新しくすることで神が力を持ち続けるようにする」意味合いがあります。ほかには、権力をねらう豪族から鏡のありかをくらますための秘策とも考えられています。

神職以外が正殿の垣の内側に入ることはない

前述の理由から、天皇は何かしらの理由で八咫鏡を「意図的に遠ざけていた」慣習が長らく残っていた可能性が考えられます。

また、立ち入り禁止となっている理由について、明確に「なぜそうするのか」という部分が伝わることなく、習慣が形骸化した結果ともいえます。

天皇は長らく、直接関わらない代わりに、「斎王」という伊勢神宮での祭祀の代理人を立てていました。

天皇が正殿に立ち入り禁止となっている理由は、これらの長年の既成事実の積み重ねにより、「天皇は正殿に立ち入り禁止」という慣例ができたと考えられます。

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伊勢神宮の正殿は立ち入り禁止はなぜ?【まとめ】

伊勢神宮には天皇の始祖である「アマテラスオオミカミ」を祀る内宮と、アマテラスオオミカミの食事を司っていた「豊受大明神」を祀る外宮に分かれています。

これらの正殿はそれぞれ「唯一神明造」という特別な造りになっており、他の神社とは別物であることを暗に示しています。

天皇が八咫鏡を伊勢神宮に収めた経緯は諸説あります。

考えられることは、神の形代と寝食を共にすることは「畏れ多いこと」や「他の豪族からの脅威」などの理由で天皇は鏡を意図的に遠ざけていたことです。

八咫鏡に対する天皇の関わり方そのものが長年受け継がれた結果、「天皇は伊勢神宮の正殿に立ち入り禁止」という慣例になったのでしょう。

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