広島城は戦国時代に築かれたお城で、別名「鯉城」とも呼ばれています。
では、広島城は誰が建てたのでしょうか?
築城主の毛利輝元や黒田官兵衛の関与、そしてなぜこの場所に築かれたのか。
その理由や歴史、城の特徴を詳しく解説していきます。
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広島城は誰が建てた?なぜ建てられた?

広島城は誰が建てた?
現在見られる広島城は、鉄筋コンクリートで復元された三代目の天守閣です。
場所はその名の通り、広島県広島市内の三角州にあります。
広島城が築かれたのは天正17年(1589年)で、築城主は毛利輝元です。
広島城はなぜ三角州に建てられたのか?
もともとこの太田川河口の三角州には、輝元の祖父である毛利元就が目を付けていました。
元就は、領土を広げるにあたって、陸と海の交通の便が良い瀬戸内海沿いのこの地が最適だと考えていたのです。
しかし元就は、実際に築城する前に亡くなってしまいました。
その思いを継いだ輝元が、広島城の築城に着手したというわけです。
つまり、広島城が建てられた理由のひとつは、この立地条件にあったといえるでしょう。
広島城は聚楽第に似ている?

広島城は、豊臣秀吉が建てた聚楽第(じゅらくだい)に似ていると言われています。
聚楽第とは、秀吉が関白に就任したときに建てた御殿で、その豪華さは豊臣家の権威を示すものでした。
当時はショベルカーやクレーン車など無い時代です。
立派な城を建てられる人物こそが、権力と財力を持つ「すごい人」だと考えられていたのです。
なぜ聚楽第に似た城を作ったのか?
では、なぜ輝元は聚楽第に似た広島城を築いたのでしょうか。
天正16年(1588年)、輝元は上洛し、大坂城や聚楽第の華やかさを目の当たりにしました。
そのとき「毛利家が繁栄するためには、これだ!立派な城が必要だ!」と思ったと言われています。
黒田官兵衛も築城に関わった?

広島城の築城が始まったのは天正17年(1589年)。
このとき、豊臣秀吉は築城の名手である黒田官兵衛を指導役として派遣しました。
秀吉としては、どのような城が造られるか確認する意図もあったのでしょう。
官兵衛がどの部分を指導したかは記録に残っていませんが、彼も広島城を作った人物のひとりに数えて良いでしょう。
広島城築城後のエピソード
輝元は城の完成を待ちきれず、石垣などが未完成のまま入城しました。
なお、広島城は慶長4年(1599年)に落成しています。
広島城は秀吉の宿城でもあった

また、広島城は豊臣秀吉が大陸出兵を行う際の宿城としても重要だったという説があります。
他にも、備前名護屋城や筑前名島城などが宿城とされていました。
このように、広島城が建てられた理由は、毛利家の本拠地としてだけでなく、秀吉の軍事戦略上の拠点としての役割もあったと考えられています。
広島城の構造・特徴は?聚楽第や他の城との違い

三角州に築かれた城で水運を生かせる
広島城は、太田川河口の三角州に築かれた平城で、水運を活かせる地の利が最大の特徴です。
山城や平山城と違い、標高の高低差を防御に頼れないため、堀や石垣を駆使して防御力を高める必要がありました。
当時の広島城は、本丸・二の丸・三の丸が堀に囲まれた輪郭式の縄張りで、堀の外には城下町が広がっていました。
天守は五重五階で、外観は黒漆塗の下見板張りが特徴です。この黒い外観から「烏城(うじょう)」と呼ばれることもありますが、一般的には「鯉城(りじょう)」の別名で知られています。
聚楽第の影響が強い
また、広島城の築城には聚楽第の影響が色濃く見られます。
聚楽第は豪華絢爛さで知られる城郭御殿で、広島城も当時最先端のデザインを取り入れ、毛利家の権威を示す華やかな装飾が施されていました。
例えば、初代天守の鯱瓦や鬼瓦には金箔が押されていたことが発掘調査で判明しています。
広島城と聚楽第との違い
ただし、聚楽第が政治拠点を兼ねた御殿的要素が強いのに対し、広島城は軍事拠点としての機能が色濃く、防御面でも工夫が凝らされていました。
天守の最上階からは太田川と瀬戸内海を一望でき、交通と軍事の両面で重要な役割を果たしていたのです。
このように、広島城は聚楽第の華やかさと実戦向きの堅牢さを兼ね備えた城であり、毛利輝元の権威と戦略を象徴する存在だったといえるでしょう。
広島城の歴代藩主は誰?

関ヶ原の戦いで敗れた毛利輝元は、広島から長門萩に移封、そして福島正則が新たな藩主となります。
しかし幕府に申し出ず、勝手に石垣を修繕したとして福島正則も移動となり新たに浅野長晟が入城します。
浅野家は幕末まで藩主を務めています。
福島正則が修繕して破壊しただろうと思われる石垣は、広島城内で見ることができます。
また、広島城が完全に完成をしたのは福島正則の時代とも言われています。
正則も、広島城を作った人にいれてもいいですよね。
広島城はなぜ建てられた?誰がどのように建てたのか検証します!【まとめ】
今回は、広島城なぜ建てられた?いつ建てられたのか?
作った人などについて検証をしてきました。
戦国時代から中国地方の要となり、歴代藩主を受け入れてきたのですね。
初代広島城の天守閣には発掘調査によって金箔が押された鯱瓦と鬼瓦が使われていたことがわかりました。やはり秀吉の影響だったのでしょうか。
広島には、原爆ドームや平和記念公園など、見るべき場所はたくさんあります。
広島城もその一つ。天守閣内は、広島の郷土の歴史や江戸時代の城下町について展示されとても興味深く見学できました。
石垣を見ることで、年代による作り方切り方の違いや原爆の脅威についても深く知ることができます。
広島城は、広島駅から路面電車やバスで30分ほどのアクセスがとても便利な場所にありますので、是非お出かけ下さい!