松山城を建てた人は?いつできたのか、建てられた理由等を徹底調査!
松山城を訪れようと計画中の方に、事前に松山城についてご紹介します。
これを読んで当時の風景や人物像について思い浮かべながら観光してみて下さい。
松山城を建てた人は誰?
松山城を建てた人物は、加藤嘉明ということはご存知の方も多いのでは?
加藤嘉明は1563年生まれ、安土桃山時代~江戸時代の武将です。伊予松山藩、奥陸会津藩初代藩主で豊臣秀吉の家臣として知られています。1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康側に従軍しその戦いを認められて伊予の国20万石をもらいお城を築くことになります。
1602年に築城を開始して完成までに25年かかったと言われています。勝山に城郭を築くために地割を行い工事に着手し、その後嘉明は新城下を映して松山という名前が公にされて、その後お城の築城だけでなく松山平野の治水や水運を含む大きな計画を立てていたと言われ、工事が続き完成までに25年かかったと言われています。
加藤嘉明は、松山城がほぼ完成間近で会津に移動を命じられて40万石の大名になりましたが、嘉明は松山城の完成をこの目で見ることはできなかったのです。
松山城について
では、その松山城について少しご紹介しますと、現在お城が建てられている場所は標高132m、勝山という山の上に建てられていて、別名勝山城とも呼ばれています。
国内に12しかない江戸時代までに建造された天守を持つお城の1つです。日本100名城にも選ばれていて日本の歴史公園100選にも選ばれています。天守を中心に小天守や櫓を渡り櫓で結ぶ連立式の天守群になります。江戸時代に入ってから造り始めたにもかかわらず、この連立式天守という造りは天守防衛の最上級の形とも言えます。
加藤嘉明がこの伊予の国に入った当時は、いつ戦いが始まってもおかしくないような状態だった多ため、このような軍事的なお城を作ることができたと言えます。
ただ、加藤嘉明が移動になった後に藩主になった松平定行によって5層あった天守は3守に改築されています。
天守の最上階からは松山平野や瀬戸内海まで見渡せます。山麓から本丸へ斜面をはうように築かれている230mもの登り石垣。その南側はほぼ完璧な状態で残っています。1784年には落雷により天守を含む多くの建造物が消失しています。その後も2度にわたり火災で失い、1933年には放火により本壇の建造物のほとんどを失っています。現存する天守は1854年に再建されたもので、外壁や瓦など江戸時代から受け継がれた姿を確認することもできます。
松山城へ登るのは
松山城へ行くには、徒歩かロープウェイまたはリフトで上がることができます。ロープウェイ東雲口駅舎1階の自動券売機で購入できます。
営業時間は季節で異なりますが8:30~から運行しています。ロープウェイは10毎の運行になり、ロープウェイは乗車時間は3分ほどですが、その間簡単な松山城の案内をしていただけます。ロープウェイに乗った際はぜひ案内にも耳を傾けてみて下さい。
リフトはスキー場にあるのと同じ1人乗りです。リフトの所要時間は約6分程です。見晴らしはとてもよく足元にネットもありますので、安心して利用できます。
あとは、登山道を歩いて松山城を目指す方法があります。当時の歴史を感じながら登山道を歩くのも楽しみの1つかもしれません。少しづつ近づいてくる天守と眼下に広がる松山平野を観ながら歩くのもおすすめです。
松山城を建てた人は?いつできたのか、建てられた理由等を徹底調査!【まとめ】
松山城を観光する際は、お城を造った人たちのことや、その歴史を少しでも調べてからお城を見て歩くとその時代背景が浮かんできてお城を観る気持ちも変わるのではないでしょうか?歴史は難しいかもしれませんが、加藤嘉明になってお城を観光してみて下さい。