岡崎城の武田勝頼vs徳川家康 長篠・設楽原の戦いなど史実の徹底調査

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大河ドラマ「どうする家康」のタイトルのあるように、家康の人生で最大の「どうする?」が起こったのは武田軍との戦いだったのではないでしょうか。

家康34歳、1575年天正(3年)長篠・設楽原の戦いでは、織田信長との連合軍とはいえ、負け続けていた中、ついに武田軍を撃退します。

今回は、岡崎城をめぐる武田勝頼と徳川家康の対決、長篠・設楽原の戦いについての史実などを調査していきます。

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岡崎城武田勝頼の史実!長篠・設楽原の戦い

長篠・設楽原の合戦は、1575年(天正3年)に、織田信長と徳川家康の連合軍と、武田勝頼との戦いです。

この戦いでは、信長は大量の火縄銃を使いました。

当時では新しい武器で火縄銃の弱点である装填時間を考慮し鉄砲隊を3列に分け攻撃する策を見出し、武田の騎馬隊を撃破する要因となりました。

「どうする家康」では徳川信康が驚きと悲しみの表情をしていましたね。

信長は、交易の盛んだった堺と物流について情報を得ていたので、鉄砲・弾丸・硝石の調達ができたのでこのような戦いができたそうです。

武田軍といえば鍛えぬ抜かれた騎馬隊ですよね。

この戦いまで25年間無敗を続けていましたが、ついに敗走することになりました。

織田・徳川連合軍はこれを見て「初めて武田の後姿を見た」と言っていたというエピソードが残っています。

さて、家康は長篠設楽原の戦いの前の、三方ヶ原の戦いで武田信玄に惨敗し自国の領土を大きく失います。この戦いの途中で信玄は病死し、その後息子の勝頼から攻め続けられます。

家康は同盟を結んでいた信長に援軍を頼み、長篠・設楽原の戦いでやっと武田軍を撃破することができました。

長篠・設楽原の古戦場として残っているので現在も見ることができ、信長・家康の連合軍や勝頼軍の戦法をリアルに感じることができます。

長篠・設楽原は、現在の愛知県新城市に位置します。最近だとマジカルラブリーの村上さんの出身地であること、知る人ぞ知る「新城ラリー」の舞台として有名です。

奥三河の三大祭りと言われる「長篠合戦のぼりまつり」「つくで古城まつり」「設楽原決戦まつり」があり、合戦の雰囲気が味わえます。

鉄砲隊の実演もあります。

また、毎年8月15日には長篠設楽原の合戦の戦没者を弔い「火おんどり」があります。

長篠の史跡をめぐるには車移動が便利ですが、古戦場は広く、資料館もあり歩く距離は多くなると思います。
お昼ご飯には、美味しい猪肉が食べられる「ししや」さんがおすすめです。自分はイノシシのすき焼きを食べて元気回復しました。

岡崎城と武田勝頼

武田勝頼は三河制覇を企み、岡崎城攻略を仕掛けます。岡崎城では信康の家臣である大岡弥四郎が勝頼と内通し、謀反を起こしますが、失敗し処刑される出来事がありました。

負けてばかりの家康より、猛将・信玄の息子である勝頼に寝返るものもいたのですね。

岡崎城を攻め落とし徳川をつぶしたかった勝頼にとっては誤算だったことでしょう。

しかしその後、勝頼は野田城、二連木城お攻め落とし長篠城を包囲し勢いつきますが、長篠・設楽原の戦いで敗戦し、武田軍が追い込まれていくことになります。

徳川家康と武田勝頼

徳川家康は1542年(天正11年)生まれ、武田勝頼は1546年(天正15年)生まれで同世代ですね。

家康にとって勝頼は三河という領土を奪い合う敵以上に、勝頼に内通した疑いで正室・築山殿と信康を失った憎い人という方が大きいのかなと自分は感じます。

「築山殿事件」については、いろいろな研究や見解があって、築山殿は悪女になったり良き妻であったりします。

「どうする家康」では第23、24、25回で放送されていましたね。史実とはいえ、築山殿を救ってほしかったなあと思いました。

岡崎城の武田勝頼の史実【まとめ】

今回は、岡崎城をめぐる武田勝頼と徳川家康の対決、長篠・設楽原の戦いについての史実などを調査していきます。

徳川家康と武田信玄・勝頼との対決は、小説や歴史本を読むといろいろな考察があって、調べていくととても面白いです。設楽原古戦場に実際行って見ることで、さらに面白みが盛り上がってきます。
復元された馬防柵は近くまでいって見られますので、柵の高さや質感、戦場の雰囲気を実体験できました。

今後、「どうする家康」の再放送、家康が出てくるドラマがあれば長篠・設楽原の合戦のシーンをじっくりと見直したいと思います。

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