誰もが知る、いわずと知れた日本有数のパワースポットで、日本最高峰の神社といえば伊勢神宮です。
伊勢神宮は誰が建てたのでしょう。
いつ、何のために。
日本最高峰に位置づけられるのはなぜでしょう。
伊勢神宮の歴史について解説します。
[blog_parts id=”37952″]三種の神器と神社の関係
天皇の祖先神である「アマテラスオオミカミ(天照大神)」は、孫のニニギに皇位継承の証として三種の神器という宝物を授けました。
神器は剣、玉、鏡の三種類あり、それぞれ草薙の剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)とよばれています。
崇神天皇と八咫鏡
天孫降臨の時代から建国を経た3世紀半ばごろ、10代目の天皇に崇神天皇(すじんてんのう)がおられました。この頃、三種の神器はすべて宮中で保管されていました。
とくに八咫鏡(やたのかがみ)はアマテラスオオミカミより、「私を見るように見よ」と言い伝えられ、鏡と寝食を共にするような生活を送っていました。
ところが、巷で日照不足や疫病が蔓延することで、鏡の威力が弱まっていること、神聖なるもの同士が近くあることに畏れ多さを抱くようになりました。
崇神天皇の死後、11代目の垂仁天皇(すいにんてんのう)が皇位を継承しました。
統治のあいだに皇后の兄が乱を起こし、暗殺されかけます。
伊勢遷宮は誰が建てた?
垂仁天皇は、先の皇后が権力争いの乱を起こした兄とともに亡くなったのち、娶った別の皇后に八咫鏡を収めるよう託します。
日照不足や飢饉で力を失いつつある八咫鏡と寝食を共にすることに畏れ多さを感じた崇神天皇。引き継いだことで自身の命を奪われそうになった垂仁天皇。
これらの理由がかさなったことより、天皇は鏡を宮中から遠ざけたいと考えました。
垂仁天皇は、即位25年の年に、皇后へ八咫鏡を納める土地探しを託します。数十年の後、
やがてその任務は娘である倭姫(やまとひめ)に受け継がれました。
母と娘で実に90年近くかけて巡り、落ち着いた土地が現在の伊勢です。倭姫と母が巡った土地は「元伊勢」と呼ばれます。
現在の伊勢に落ち着いた理由は、明確にされていません。
「地元のあわびが美味しかった」など土地の風土を気に入ったという言い伝えがあります。
しかしながら、実際はもっと複雑な事情で、土地の位置や地形、豪族の勢力図が関わっている可能性が有力です。
陰陽の考えで宮中を守護するための神社が、五芒星の位置関係になるように、ほかの豪族に狙われても海路へ脱出できるようになどが考えられています。
また、場所選定から建立に90年かかった理由は遠ざける場所を「探していた」のではなく実は最初から目星をつけていたけれども、「誰かから目をくらませるために逃れていた」とも考えられます。
倭姫たちがめぐった「元伊勢」が宮中よりほぼ東側に集中することから、「日の出」または「日の入り」を意識して考えた意図もありそうです。
倭姫のように八咫鏡にまつわる祭祀を託された人物は斎王(さいおう)とよばれ、長年にわたり天皇家の皇女から選定されていました。
習慣は鎌倉時代や室町時代の南北朝のころまで続きます。斎王の制度がなくなった後は、宮司に任命された者が祭祀を執り行いました。
天皇と式年遷宮について
八咫鏡は天皇により、意図的に宮中から遠ざけられました。
天皇の権力争いが苛烈だった持統天皇のころに、皇位継承の正当性の証として参拝して以来、明治天皇の代まで天皇が伊勢神宮を参拝することはありませんでした。
正殿内部は、今でも宮司以外、天皇であっても「立ち入り禁止」となっています。
また、一度弱まったパワーの再生という意味を込め、伊勢神宮の建物は20年に1度の「式年遷宮」という建て替えが行われます。次回の式年遷宮は2033年の予定です。
[blog_parts id=”37952″]伊勢神宮は誰が建てた?【まとめ】
伊勢神宮は11代目垂仁天皇の娘の倭姫が中心となって建立されました。
現在の場所になった時期は3世紀半ば頃です。
前任の崇神天皇のころに日照不足による飢饉が起きたことや、受け継いですぐに権力のために身内から暗殺されかけたことがきっかけで手放すことを考えていました。
身内が乱を起こした皇后の死後に娶った皇后に、八咫鏡の安置場所探しを託します。
結果として、90年近くかかって現在の伊勢に八咫鏡の安置場所が決定しました。
選定の理由は明らかにされていませんが、位置関係や経緯などを鑑みると、実は最初から持ち出すための場所として目星をつけており、権力争いなどの理由があって意図的に逃れていた可能性が有力です。
また、祭祀は天皇の代理として「斎王」とよばれる皇女や宮司の手によって長らく行われました。
持統天皇の代から明治天皇の代まで長らく天皇の参拝はなく、今でも宮司以外は正殿に事実上の「立ち入り禁止」となっています。