清水寺は誰が建てた?何のために建てられたのか?理由について解説!
これから、清水寺誰が建てたのか、何のために建てられたのか?理由について解説していくので、最後まで読み進めて頂ければ、その理由がわかるので、最後までお付き合い下さい。
清水寺誰が建てたかというと、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって建立されました。
何のために建てられたのかいうと、坂上田村麻呂による蝦夷征伐(えぞせいばつ)の成功を祈願して建てられたとされています。
清水寺は誰が建てた
奈良末期「778年」に僧延鎮が開山し、平安建都もない「798年」、坂上田村麻呂が仏殿を建立したと伝えています。
清水寺誰が建てたのかは、おわかりいただけたと思います。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)という人は、いったいどんな人なのか解説したいと思います。
平安時代初期に活躍した武将。天平宝子(てんぴょうほうし)2年生まれ(758年)父は「苅田麻呂」、母は「畝火浄永」の娘です。
桓武天皇の二大事業の一つとして活発に行われた蝦夷征討において、武将としての器量を大いに発揮して活躍したことが有名。
802年に胆沢(いさわ)城を築き、鎮守府(ちんじゅふ)をここに移し、蝦夷平定に大きな功績を残した。
803年に北進して志波(しわ)城をつくり、蝦夷地経路に多大の功績を残しました。
810年に起こった薬子(くすこ)の変では、嵯峨天皇の命で、東国への脱出を企てた平城(へいぜい)上皇らを「大和」国(奈良県)添上(そうのかみ)群で食い止め武功をあげた。
娘の春子が桓武天皇の後宮に入って、姉妹又子、高津内親王、葛井(ふじい)親王を生んでいる。京都東山の清水寺は坂上田村麻呂の創建と伝える。
清水寺を建立するにあたって、3名の人物が、関わっています。
坂上田村麻呂・行叡(ぎょうえい)・延鎮(えんちん)です。
「行叡」と「延鎮」は清水寺を誕生させた人とされています。
清水寺は何のために建てられたのか?
清水寺は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)による蝦夷征伐の成功を願って建てられたとされています。
坂上田村麻呂は、妻の病気を治そうと、鹿の生き血を求めていました。
逃げる鹿を追い、坂上田村麻呂は、延鎮(えんちん)の住んでいる音羽山へ迷い込みました。
坂上田村麻呂は出会いました。
延鎮は鹿を殺生とする坂上田村麻呂に対して、生き物を殺すことは罪ぶかい事だと教え狩りを止めさせようとしました。
延鎮の説得に坂上田村麻呂は感動します。
坂上田村麻呂は、自分の家を延鎮にゆずり、お寺の本堂として使ってもらうことにしました。
大将軍に命じられた坂上田村麻呂は、東北へ出陣します。
坂上田村麻呂は、毘沙門天の変化身である若武者と、地蔵菩薩の変化身である齢を経た僧侶に助けられ、蝦夷(えみし)を倒す事に成功したのです。
坂上田村麻呂は、延鎮上人とともにお寺を大きく改築します。
改築により、延鎮上人によって祀られていた観音菩薩の像をさらに蝦夷征伐で
助けてくれた毘沙門天と地蔵菩薩の像を作り、清水寺に祀ったのです。
清水寺は誰が建てた?【まとめ】
清水寺誰が建てた、何のために建てられたのかについて解説してきました。
清水寺を建立した人物は、坂上田村麻呂(さかうえのたむらまろ)です。
建てられた理由ですが、妻の病気を、やわらげる薬を求めていて、延鎮から殺生の罪を説かれ、その教えに心が打たれました。自らの自宅を寄付した田村麻呂は、千手観音を御本尊として寺院を建立して、音羽の滝の清らさにちなんで、清水寺として名付け誕生しました。
少しは、わかって頂けましたかね?歴史の勉強をしている感じになりましたが最後までお付き合い頂きありがとうございました。