国宝に指定されている松江城ですが、城主は誰かご存じですか?
なんとあの本能寺の変で有名な明智光秀に勝利を収めている武将なのです!
その武将の名は堀尾吉晴です!
「誰って?」って思われている方が多いかもしれませんね(笑)
堀尾吉晴は安土桃山時代から江戸時代前期の武将です。
豊臣政権三老中の一人で、多くの功績を残しています。
今回はそんな堀尾吉晴の歴史や名言を紹介したいと思います!
城主のことを深く知ったうえで、松江城を眺めると歴史を感じることができますよ。
ぜひ最後までお読みください!
松江城の城主は明智光秀とどんな関係があるの?
堀尾吉晴の経歴!
現在でいう愛知県で生まれ、織田信長に仕えていたようです。
豊臣秀吉の配下として全国を回り、佐和山城主、浜松城主の戦国武将となりました。
秀吉の死後は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いで功績を残したようです。
関わっているメンバーが大物すぎる経歴ですね(笑)
明智光秀に関しては、山崎の合戦における鉄砲隊を率いた山崎の合戦で勝利を収めています。
松江城の築城は1607年に開始し、その4年後の1611年に完成。
同年6月に死去。
69歳でこの世を去りました。
当時では長生きのほうですね。
性格は温厚で仏の茂助と呼ばれていたそうです。
その一方で、戦になると勇敢な武勇へと姿を変える一面があり、戦場では鬼の茂助と呼ばれていました。
人格が変わるタイプの人であったことがうかがえますね。
経歴から戦に関して優秀な武将であったことがうかがえますね!
堀尾吉晴の名言!
数々の戦で戦果を挙げた武将である堀尾吉晴。
そんな偉大なる武将の名言があったので、紹介させていただきます!
『国が乱れた時は敵に飛び込んで闘う武士たちの慰みの場を、銀子に換えるなど思いもよらぬ』
少し難しいので説明を加えます。
農民たちから、佐陀江という湖を灌漑に使いたいので銀子20枚で払い下げてほしいという要望を受けた際、堀尾吉晴が放った言葉です。
当時、この湖は武士たちが鯉などを狙って川釣りをして楽しむ場所でした。
そんな大切な憩いの場をお金と引き換えに奪い取ることはできないといった考えだったようです。
国のために命がけで戦い続けてきた堀尾吉晴だからこそ、憩いの場の大切さを知っていたのかもしれません。
武士たちのささやかな楽しみや安らぎを奪わないで欲しいといった堀尾吉晴の優しさがうかがえる名言ですね。
もう一つ名言を紹介させていただきます。
『道(趣味)は道に過ぎぬ。』
この言葉の意味は、「本業だけではなく、それ以外の道(趣味)にも心を向けよ。しかし、いかにもその道を極め、達人と言われようとも、それによって本業をおろそかにしてはならない。
その道とは、本業をいかに活かすための味付けに過ぎない。その道は道に止め、いかに活用するかを考えるべきものだ。」だそうです。
なかなか今の世の中にも通じる話のような気がします。
近年、働き方が多様化された世の中になりました。
副業が推進されるようになり、多くの職種を経験する機会が増えました。
そんな世の中だからこそ、自分が一番大切にできる仕事、いわゆる本業が大切なのではないでしょうか。
副業で少しうまくいったからといって、それで食っていける保証はありません。
あくまで、本業を活かすためのスキルや経験を身に着けるためにするものなのではないでしょうか。
そんなシンプルで大切なことをこの言葉は伝えようとしているのかもしれません。
松江城の城主は明智光秀とどんな関係があるの?【まとめ】
いかがだったでしょうか?
堀尾吉晴という武将に関して詳しくなることができたと思います!
松江城の城主がどのような人だったのかを知ることで、観光の奥行きがぐっと深くなりますよ!
現地に出向いた際は、ぜひ堀尾吉晴に関して思いをはせてみてください!
最後まで読んでいただきありがとうございました。