長野県松本市にある国宝・松本城は松本市のシンボルとして観光名所となっています。
きっと一度は松本城の名前を聞いたことはあるかと思います。
国宝や観光名所と聞けば、どんなところなのか行ってみたくなりますよね。どんな歴史があるのか、どんな人が作ったのか謎なところもあるでしょう。
そこで今回は、松本城ってどんなお城なのか、歴代城主はどんなひとがいたのか、信濃の武将・武田信玄も関りがあるのかなどをわかりやすくいろいろな視点から松本城について調べていきましょう。
松本城の歴史を分かりやすく解説
国宝である松本城は、天守が5層6階、乾小天守、渡櫓、辰巳腑櫓、月見櫓で構成されている平城です。
安土桃山時代の1593年(文禄2年)に初代城主の石川数正、その息子の康長が天守、乾小天守、渡櫓の築城を行いました。
石川数正と言えば、大河ドラマ「どうする家康」松重豊さんが演じていましたよね。家康を裏切って、豊臣秀吉の家来となった人です。
松本城を含む信州一帯のお城は、関東にいる家康が攻めてこないようにという睨み役であり、松本城はその中心的なお城であったと考えられています。
豊臣政権下の松本城には「金箔押瓦」が使われていたそうです。松本城では太鼓門あたりで出土されています。
金箔付きの板瓦には秀吉の紋があり、その紋は秀吉だけが使用できるものでした。秀吉の紋付き金箔瓦があったということは、豊臣から信頼を得られた城主のお城といえるでしょう。
徳川時代になると金箔瓦は破棄されて、松本城は西方面に睨みをきかす役割へと変わっていきます。
出土された金箔押瓦は新しくなった博物館で公開されるか未定だそうです。公開されたら現物を見たいですよね。
さて、辰巳腑櫓、月見櫓に2つは、江戸時代の1634年に松平直正(家康の孫)が藩主の時に築城されました。月見櫓は、徳川三代将軍の家光を迎えるために作られたそうです。
家光が善光寺参拝の帰り道に松本城に立ち寄ることとなり、おもてなしをするために築城をしたそうです。
実際に行ってみると開放感のある造りをなって優雅な月見ができるんだろうなと思いました、
松本城は、低湿地の地盤に築城されているため、各櫓は雨風や雪に耐えうるように様々な工夫がされています。
明治時代になると修繕工事が行われています。修繕の苦労がわかりやすく見つけられる縄の後など天守の重みを支える柱などは、どうなっているのかじっくりと見てみたいですよね。
松本市博物館のサイトはこちら
https://matsumoto-city-museum.jp/
松本城 歴代城主を調査
松本城の城主は6家23名が務めています。松本城周辺には、藩主の行灯やプレートなど多くあるのでわかりやすいです。
それでは歴代城主をわかりやすく年代に分けて調べてみましょう。
〇1590~1613年の23年間は、石川数正、その息子 康長天守を築城し城下町を作っていきました。
〇1613-1617年は小笠原秀政、弟の忠真(忠政)
小笠原秀政は、石川数正より前に松本城を拠点しており、再入封となります。
小笠原秀政は、徳川家康の家来でしたが1590年小田原征伐後に松本城から下総に移封となりました。
秀吉死後、江戸時代になると徳川家康によって松本城に再び移封されますが、大坂夏の陣で戦死します
城下町に街道を取り入れ、善光寺に行きやすい道を作りました。
〇1617-1633年は戸田康長、康直
戸田康長は家康から松平姓と葵紋を与えられた最初の人物です。家光の補佐役をしたり、松本藩の家臣団、村を整えました。
〇1633~1638年は松平直正
直正は家光とは従弟となります。家光が松本城に立ち寄ると聞いて、連結複合式の天守を築城することにしました。
〇1638-1642年は堀田正盛
堀田正盛は家光の乳母役である春日局の義理の息子で、そのため松本藩に出世できたと言われてます。
〇1642-1725年は水野忠清、忠職、忠直、忠周、忠幹、忠恒、
水野家は家康の母である於大の方の系譜にあたる家系です。83年間で藩の体制を整えていきます。
水野忠恒が江戸城の松の廊下で長州藩主と刃傷事件を起こし、改易となり松本城を出ていくこととなりました。
〇1725-1869年に戸田光慈、光雄、光徳、光和、光悌、光行、光年、光庸、光則
鳥羽藩から戸田氏が転封となり再び藩主を務めます。
1727年のお正月に本丸御殿か火災になり、財政難のため復元はされませんでした。
松本城の武田信玄とのかかわりって?
松本城は初めから松本城と呼ばれていたのではなく、深志城という名前のお城でした。1585年頃に小笠原良慶が松本城という名前に改めています。
戦国時代、武田信玄は信濃の地域を攻め落とす中で、深志の地を交通の要所と考えていたようです。上洛を目指す武田信玄にとって拠点となる城を多く持っていたいですよね。1550年頃には信濃の地の多く攻略していました。
松本城は陰陽学によると「四神相応の地」といわれており城を建てるには好立地にあるそうです。もしかしたら武田信玄もそういったことを知っていたのかもしれませんね。
武田信玄が深志城を整備し、亡くなってからは木曽義昌などがお城に入り、本能寺の変の後は小笠原良慶などの武将が深志城に入り、松本城として名前を変えて現在に至ります。
松本城の歴史をわかりやすく解説!【まとめ】
今回は、松本城について歴史や歴代城主についてできるだけわかりやすく調査をしてきました。
日本には多くのお城があり、そのほとんどが観光名所となっています。100名城というお城のスタンプを集める企画も人気があります。松本城に関わらず、歴代城主は誰だったか、築城についてなと調べると見方も幅広くなりますよね。
またそういった歴史などに興味が持てなくても、ライトアップされた松本城は本当に美しいので是非松本城にお出かけくださいね。