彦根城を建てた人は誰?築城秘話と歴代城主を徹底解説

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彦根城は現存12天守の1つで、国宝に指定されている美しいお城です。

誰が建てたのか、いつ築かれたのか気になりますよね。

今回は、彦根城の築城年と建てた人、そして歴代城主について詳しく解説していきます。

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目次

彦根城を建てた人は?いつできたの?彦根城はどんなお城?

彦根城は滋賀県彦根市にあり、国宝にも指定されている人気のお城です。

その美しさから海外からの観光客も多く訪れています。

江戸時代を知る上で重要なお城とも言われ、江戸幕府を守る存在の1つでした。


彦根城はいつ築かれたの?

彦根城の築城は1603年(慶長8年)に決定され、その後、1607年(慶長12年)までに天守や城郭が完成しました。

さらに、大坂の陣の後には整備が進められ、1622年(元和8年)までに三重の堀、表御殿、城下町の配置が完成しています。


誰が彦根城を建てたの?

彦根城を建てたのは井伊直継と井伊直孝です。

ただし、築城工事は江戸幕府主導で進められました。

この背景には、徳川家康の意向があったとされています。

外様大名の動きを監視するため、彦根の地に強固な城を築き、西から江戸への攻め込みを防ぐ狙いがあったのです。


井伊家はどんな家柄?

彦根城の歴代藩主は、初代から代々井伊家が務めてきました。

もともと井伊家は、現在の静岡県浜名湖の北にある井伊谷(いいのや)を治めていた武家です。


井伊家が彦根に来た理由

井伊家が静岡から滋賀に移った理由は、直継・直孝の父、井伊直政(1561~1602)の時代に遡ります。

井伊直政とは?

井伊直政は、徳川家康の信頼厚い家臣で徳川四天王の1人です。

大河ドラマ「どうする家康」では板垣李光人さんが演じています(NHK公式サイト)。

もともと井伊家は今川義元に仕えていましたが、直政の父が謀反の疑いで殺害され、幼少期の直政(幼名:虎松)はお寺にかくまわれて育ちました。


徳川家康への仕官と活躍

15歳で徳川家康に仕えた直政は、その後武将として頭角を現し、関ヶ原の合戦では徳川方の先陣を切る活躍を見せます。

しかし、合戦で受けた鉄砲傷が悪化し、41歳で亡くなりました。


彦根城築城と井伊家の跡継ぎ

直政は1601年(慶長6年)に彦根へ移りましたが、彦根城の完成を見ることなく亡くなってしまいました。

跡継ぎとしては長男の直継がいましたが病弱だったため、弟の直孝が井伊家の2代目を継ぎ、彦根城築城の中心となりました。


彦根城が建てられた目的

こうして彦根城は、井伊直孝と徳川家康らによって築かれたお城です。

西の大名たちが江戸へ攻め込むことを防ぐ、幕府の重要な防衛拠点として築かれたことがわかります。

彦根城の築城に使われた部材や特徴的な建築技術

彦根城の築城は、単に新しい天守を建てたというよりも、他のお城から部材を移築して築かれたという特徴があります。

特に有名なのが大津城から移築された天守です。

1600年の関ヶ原の戦い後、大津城は廃城となり、その天守を彦根城に移築しました。

現在の彦根城天守は、大津城の天守を基にしていると言われています。

また、天守の屋根は三層でありながら外観は四層に見える造りで、屋根瓦には葵の御紋があしらわれています。

これは徳川家との深い関係を示す証拠で、井伊家が徳川幕府の譜代大名として特別な立場にあったことがわかります。

さらに、彦根城は防御性にも優れた設計がされており、天秤櫓(てんびんやぐら)や馬屋、太鼓門櫓など城郭全体が巧みに配置されています。

天秤櫓


太鼓門櫓


馬屋

これにより、敵が攻め入りにくく、城主が守りやすい構造となっていました。

このように彦根城は、大津城の歴史を引き継ぎながらも、江戸時代初期の築城技術が集約された名城と言えるでしょう。


彦根城の歴代城主とは?

彦根城の歴代藩主は、初代から15代まで井伊家が務め続けました。

江戸時代を通じて一度も藩主が変わらなかったことからも、井伊家が徳川幕府にとって重要な家柄であったことがわかります。

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名前在任期間特徴・功績
初代井伊直継
いい なおつぐ
1602年 – 1615年井伊直政の長男。病弱で弟直孝に家督を譲る。
2代井伊直孝
いい なおたか
1615年 – 1676年彦根城を完成させた。徳川幕府に重用され、譜代筆頭となる。
3代井伊直澄
いい なおずみ
1676年 – 1701年直孝の四男。藩政安定に努める。
4代井伊直興
いい なおおき
1701年 – 1710年京都所司代を務める。文化振興に尽力。
5代井伊直矩
いい なおのり
1710年 – 1714年若くして死去。藩政の実権は重臣が握る。
6代井伊直恒
いい なおつね
1714年 – 1717年わずか3年の治世で病死。
7代井伊直惟
いい なおこれ
1717年 – 1746年長期在任。藩財政再建に取り組む。
8代井伊直亮
いい なおあき
1746年 – 1760年京都所司代、老中を歴任。幕政にも影響。
9代井伊直幸
いい なおゆき
1760年 – 1798年藩校「弘道館」創設など教育振興。
10代井伊直中
いい なおなか
1798年 – 1805年病弱で藩政は重臣任せだった。
11代井伊直亮
いい なおあき
1805年 – 1831年再任(8代と同名だが別人)。藩政改革を行う。
12代井伊直温
いい なおはる
1831年 – 1836年在任5年で死去。藩政改革途中で終わる。
13代井伊直弼
いい なおすけ
1836年 – 1860年大老として日米修好通商条約締結。「桜田門外の変」で暗殺。
14代井伊直憲
いい なおのり
1860年 – 1871年戊辰戦争で官軍に恭順。廃藩置県まで藩主を務める。
15代井伊直忠
いい なおただ
明治以降藩主としてではなく井伊家の家督継承者。華族として存続。

特に有名な城主 井伊直弼

歴代藩主の中でも特に有名なのが、13代城主 井伊直弼(いいなおすけ)です。

桜田門外の変と直弼の功績

1860年(安政7年)、水戸藩の脱藩者らにより、大老であった井伊直弼が江戸城桜田門外で暗殺される事件が起こりました。

当時、日本は開国を迫られ、ペリー来航や将軍継承問題などで揺れていた時代。

直弼は日米修好通商条約を締結し、14代将軍に徳川家茂を決定するなど、幕政を主導した人物でした。

しかし反対も多く、最終的に命を落とすことになります。

これは日本の歴史における大きな転換点と言えるでしょう。


文化人としての顔も

政治家としての顔が強い井伊直弼ですが、実は茶道にも精通した文化人でもありました。

石州流の一派を創設し、「茶湯一会集」など茶道書を執筆。

武士のたしなみとして茶道を深く愛していたことがわかります。


彦根城博物館で学ぼう

彦根城内にある彦根城博物館には、井伊家や井伊直弼に関する資料が数多く展示されています。

実際に訪れれば、井伊家400年の歴史と文化を肌で感じられることでしょう。

彦根城を建てた人は誰?【まとめ】

彦根城を建てた人や築城の歴史、歴代城主についてご紹介しました。

国宝に指定された理由や井伊家の栄華を感じることができる彦根城。

実際に訪れて、その歴史と美しさをぜひ体感してくださいね。

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