彦根城は琵琶湖近くに築城され、現在世界遺産の登録を目指す美しいお城です。
現存する12の天守閣の1つでもる彦根城はいったい誰がいつ建てたのでしょうか?
今回は、彦根城がいつできたのか、歴代城主はどういった人たちなのか、建てた人は誰なのかについて調べていきましょう。
[blog_parts id=”37952″]彦根城を建てた人は?いつできたの?
彦根城は滋賀県彦根市にあり、国宝にも指定され海外からの観光客も多く訪れる人気のお城です。
彦根城を調べたら江戸時代がわかるともいわれるほど、江戸幕府を守った存在の1つです。
彦根城はいつできたのかというと、築城は1603年(慶長8年)に決定され、1607年(慶長12年)までに天守や城郭が完成します。
大坂の陣の後に1622年(元和8年)までに3つのお堀が完成、表御殿、城下町の配置もされました。
建てた人は、井伊直継・直孝ですが、築城工事は江戸幕府主導で行われました。
幕府が外様大名の動きを監視するための要所にしたかったという徳川家康の意向がわかりますね。
彦根城の歴代藩主は井伊家が代々務めてきました。
井伊家は、もともと静岡県浜名湖の北にある井伊谷を治めていた武家です。
なぜ静岡県から滋賀県に来たかというと、直継・直孝の父親である井伊直政(1561~1602)の時代に遡って説明しましょう。
井伊直政とは、徳川四天王の1人で、大河ドラマ「どうする家康」では板垣李光人さんが演じている人物です。
参考サイトはこちら→https://www.nhk.or.jp/ieyasu/cast/iinaomasa.html
井伊家は、今川義元に使えていましたが、直政の父が謀反の疑いで殺害され、直政(幼名:虎松)はお寺にかくまわれて育つことになります。
そして15歳の時に、家康の小姓として仕えることになり、井伊家の新たなスタートが始まります。
その後、直政は武将として活躍し関ヶ原の合戦では徳川方の先陣を切っています。
しかし、合戦で受けた鉄砲傷が悪化し41才で亡くなります。
直政は1601年(慶長6年)に彦根に移りましたが彦根城をみることは叶いませんでした。
跡取りですが長男の直継は病弱だったので、弟の直孝が井伊家の2代目となります。
彦根城を建てた人は井伊直孝、徳川家康らで、西にいる大名が江戸に攻めてこないように守りを固めたお城であることがわかります。
彦根城の歴代城主とは?
彦根の城下町が敵が攻めにくいように計画的に築かれた都市で、堀で仕切った区画は武家屋敷、
町人の家、お寺などで配置されています。
今でも足軽屋敷があり見学できるお屋敷もあります。
参考サイトはこちら→http://hikone-bunkaisan.net/ashigaru/
当時は30万石あり人口は3万人ほどだったそうです。
安定した城下町は、人々も安心して暮らすことができたと思われます。
井伊家は江戸時代と通じて1度も藩主が変ること無く、15代の直忠で彦根藩は終わりますが現在も井伊家の子孫の方がいらっしゃいます。
井伊家の歴代城主とは、どういった人がいたのでしょうか?
特に有名なのは、13代城主の井伊直弼で、教科書にでてくる「桜田門外の変」はご存じでしょう。
桜田門外の変とは、1860年(安政7年)に水戸藩を脱藩者などが、大老であった井伊直弼を暗殺した事件です。
当時はペリーが浦賀に来航して日本は開国するのかしないのか、また14代将軍を誰にするのか大きな問題がありました。
大老である井伊直弼が中心となり、日米修好通商条約を締結し、徳川家茂を14代将軍とすると決めました。
反対意見も多る中で暗殺されたことは、それだけ国内が大きく揺れたということでしょう。
井伊直弼は政治に翻弄された人物というイメージがありますが、茶道を究めた文化人でもあります。
石州流の一派を創設し、「茶湯一会集」など書物を執筆しており、武士のたしなみである茶道への情熱がありました。
彦根城内の彦根城博物館には、たくさんの展示物があり井伊家はもちろん、井伊直弼がよくわかる資料がありますので勉強になりますよ。
参考サイトはこちら→http://www.sekisyu.jp/#id13
[blog_parts id=”37952″]彦根城を建てた人は誰?【まとめ】
今回は彦根城を建てた人って誰か、いつできたのか、歴代城主など調べてきました。
彦根城は国宝ということもあり、一度は訪れて実際に見てみたいお城ですよね。
見た目は小さく感じますが、中に入ると広く、琵琶湖や佐和山も見えて当時の城下町の様子が想像できます。
彦根城は時代劇のロケーション地としても有名で多くの映画やドラマが撮影されています。
どの場所が撮影されていたのか、チェックしながら見るのも楽しみの1つですよね。
彦根城の近くには、琵琶湖があり観光するには絶好のポイントなので是非彦根城にお出かけくださいね。