愛媛県を代表する観光地で、日本最古の温泉ともいわれる道後温泉。
どのようにしてできたか、なぜ有名になったかご存知でしょうか。今回は、道後温泉の歴史やできた理由についてご紹介します。
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道後温泉ができた理由とは?3,000年の歴史を解説
道後温泉は、西暦710年に書かれた日本書紀に登場する温泉で、大国主命(おおくにぬしのみこと)や少彦名命(すくなひこなのみこと)が訪問したという記録があります。
初代天皇の時代が2600年以上前とされているため、道後温泉には3,000年の歴史があるといわれています。
少彦名命は病気だったのですが、お湯につかったことで具合がよくなり石の上で踊った、という伝説の石が「玉の石」として道後温泉本館の前に鎮座しています。
発見のきっかけは、白鷺(さぎ)
その昔、傷を負った白鷺が、岩の間から湧き出る水に体を浸していました。あたりは椿に囲まれていたといいます。
数日たって、白鷺は元気に飛び立ちました。白鷺の様子をみていた村人がその水は暖かいお湯で、つかったところ、体の不調がよくなったというエピソードがあります。
道後温泉ができた理由は、このお湯の効能がすぐれているものだと村人が身をもって体感したことから始まります。
また、白鷺が残したといわれる、足跡のついた石が放生園(ほうじょうえん)という公園の一角に飾られています。白鷺と椿は今でも道後温泉のモチーフとして、至る所に装飾が散りばめられています。
かの有名な聖徳太子も訪問
「伊予国」風土紀によると、病気になった聖徳太子が湯治により訪問した、という記録があります。
現在の道後公園のあたりの丘に立ち、記念碑を遺したされますが、現物が見つかっていません。
道後温泉近隣の歴史
14世紀には河野氏という士族が一帯を治め、湯築城が建てられました。土佐国を治めていた長曾我部氏と一戦交えたこともあり、領地をとられることはなかったものの、豊臣秀吉率いる小早川氏に滅ぼされました。
江戸時代は松平氏により治められ、湯築城とは別の場所に松山城が立てられました。松山城は、湯築城の残骸の一部を利用して建てられました。
小説「坊ちゃん」にも登場
旧千円札の顔としてもおなじみの夏目漱石は、かつて英語教師として東京から松山に赴任しました。
その際に体験した道後温泉の建築やサービスに感動した旨が坊ちゃんの物語として書かれています。
また、松山市では夏目漱石にちなんで俳句のポストが町中いたるところにあり、好きなタイミングでコンテストに応募することが可能です。
歓楽街の食べ歩きには「坊ちゃん団子」という商品もあるほどです。2本260円とお茶が召し上がれます。
ぜひ堪能してみることをおすすめします。
重要文化財に認定
道後温泉本館は1994年に国の重要文化財に選定されました。
選定後も今もなお営業を続けている珍しい建物です。
「道後」の由来
7世紀頃の奈良時代には、愛媛県北部の今治市のあたりに伊予国府がおかれました。
「道」は人々が行きかう場所の意味があります。道の由来については諸説あります。今治のあたりを道中、それよりも北東部を道前としたため、国府よりも遠い松山は「後」となり「道後」と呼ばれるようになりました。
また、今でも「道前」「道中」と呼ばれる大規模な地名は残っておらず、「道後」のみが現存しています。
したがって、「道後温泉」という名前ができた理由はこの「道後」と呼ばれるようになった後からということがうかがえます。
もっとも、いにしえでは「伊予の湯」「にきたつの湯」と呼ばれていました。にきたつは「熟田津」と書き、現在の松山周辺にあった古代の港の名前です。
道後温泉ができた理由とは?【まとめ】
道後温泉は、日本書紀に大国主命らが訪問した記録が残っており、その歴史は3,000年と言われています。
最初に発見されたきっかけは、傷ついた白鷺が何日も湧き出る水に体を浸していて、元気になり飛んでいった様子を見た村人がその水がお湯であり、自身の身をもって効能を試したことで広まりました。
また、周辺には椿が咲いていたという伝説も残されており、白鷺と椿は現在においても道後温泉のシンボルやモチーフとして至る所に利用されています。
また、聖徳太子が訪問した記録や、明治には仕事で東京へ赴任した夏目漱石がたいそう気に入り、小説の中に描写されたこともあります。
また、「道後」という名前は奈良時代に置かれた今治あたりにある国府から見て、中央政権のある都よりも遠かったため、道前、道中に対して「道後」と名付けられました。
道後のまえは、伊予の湯やにきたつの湯と呼ばれていました。訪問した際は「道後温泉には3,000年の歴史があるのだ」とイメージしながらお風呂に入ってみると感慨深いものがあるのではないでしょうか。