名古屋城の銅像はなぜ加藤清正?2体ある理由と清正石伝説も解説!

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名古屋城といえば、金のしゃちほこが輝く名古屋のシンボル。

そんな名古屋城の敷地内に、加藤清正の銅像が2体もあることをご存知ですか?

築城主は徳川家康なのに、なぜ加藤清正の銅像があるのか疑問に思う人も多いでしょう。

今回は、加藤清正と名古屋城の関係や清正石の伝説、銅像が2体ある理由まで、わかりやすく解説します!

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目次

名古屋城にある銅像は加藤清正?

名古屋城といえば、名古屋のシンボルとして多くの観光客が訪れる有名スポットです。

金のしゃちほこが輝く天守閣はもちろん見どころですが、実は名古屋城の敷地内には加藤清正の銅像が2体も設置されています。

そもそも名古屋城の築城主は徳川家康です。

では、どうして加藤清正の銅像が建てられているのでしょうか。

加藤清正は戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将で、築城の名手として知られています。

熊本城をはじめ、多くの城の築城や修築に携わり、その技術力と指導力は当時群を抜いていたと言われています。

名古屋城の築城においても、徳川家康の命を受けて加藤清正が築城工事に参加。

特に石垣の築造では指揮官として大きな役割を果たしました。

その功績をたたえて、名古屋城には加藤清正の銅像が建てられているのです。

築城主ではないものの、名古屋城の完成に多大な貢献をした人物として、今もなお訪れる人々にその存在感を示しています。


加藤清正とはどんな人物?

熊本城

加藤清正(かとう きよまさ)は1562年、現在の愛知県にあたる尾張国で生まれました。

幼少期を津島市で過ごし、豊臣秀吉の家臣として頭角を現していきます。

特に有名なのは、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)での活躍です。

勇猛果敢で豪快な武将として知られ、武勇に優れた武将ランキングでも常に上位に挙げられる存在でした。

また、加藤清正は「築城の名手」としても知られています。

熊本城を築いたことで有名ですが、この熊本城は「武者返し」と呼ばれる独特な石垣構造を持ち、敵が簡単には登れないよう工夫されていました。

築城においては細かい設計にも関わり、石垣の積み方や天守の構造などに独自のアイデアを取り入れたと言われています。

その技術力と指導力は当時随一で、名古屋城の築城においても重要な役割を果たしました。

武将としての勇敢さと、築城家としての知恵と工夫を兼ね備えた加藤清正。

だからこそ、今もなお多くの人に尊敬され、名古屋城にも銅像が建てられているのでしょう。


なぜ名古屋城に銅像があるのか

名古屋城の築城主は徳川家康ですが、城内には加藤清正の銅像が2体も設置されています。

なぜ築城主ではない加藤清正の銅像があるのか、不思議に思う人もいるでしょう。

その理由は、名古屋城築城における加藤清正の貢献にあります。

慶長15年(1610年)、徳川家康は西国大名たちに命じて名古屋城の築城を始めました。

このとき、築城奉行として重要な役割を担ったのが加藤清正です。

加藤清正は熊本城を築いた実績から「築城の名手」として知られ、石垣工事を中心に指揮を執りました。

特に名古屋城の天守台石垣は、加藤清正の指導のもと、わずか3ヶ月という短期間で完成したと伝えられています。

さらに、築城中に清正は自ら現場を歩き回り、作業をする人々を激励したとも言われています。

このため「清正がいなければ名古屋城は完成しなかった」とまで称されるほどです。

また、名古屋城には「清正石」と呼ばれる巨大な石垣石があり、加藤清正が運んだという伝説も残っています。

こうした功績や伝説から、加藤清正の存在は名古屋城にとって欠かせないものとなり、その偉業をたたえるために銅像が建てられているのです。


清正石とは?本当に運んだの?

名古屋城を訪れると、天守閣の石垣の中にひときわ大きな石があることに気づくでしょう。
それが「清正石(きよまさいし)」と呼ばれる巨石です。

この清正石は、高さ約2m、幅は約6m、推定重量は約120トンもあると言われています。
名古屋城の石垣の中でも最大級の大きさを誇り、多くの観光客が足を止めて見入るスポットです。

そんな清正石には「加藤清正が運んだ」という伝説が残されています。

清正がこの大石を自らの力で運んできた、あるいは築城の際に一番大きな石を運んで力を誇示した、という話は有名ですよね。

しかし、実際には加藤清正本人がこの石を運んだという記録は残っていません。

清正は築城奉行として現場を統括する立場であり、自ら石を運ぶ作業をすることはなかったと考えられています。

では、なぜこのような伝説が生まれたのでしょうか。

江戸時代、加藤清正は築城の名手として庶民に語り継がれ、その豪傑ぶりが講談や物語の中で脚色されるようになりました。

熊本城でも「清正が一晩で石垣を築いた」などの伝説が残っていますが、名古屋城の清正石もその一つ。

民衆の中で「これほど大きな石を運べるのは清正公しかいない」という尊敬と憧れが伝説を作り上げたのです。

とはいえ、清正石の迫力を目の前にすると、そんな伝説を信じたくなる気持ちも分かりますよね。

史実と伝説の両方を知ることで、名古屋城観光がさらに楽しくなるはずです。


名古屋城にある加藤清正の銅像2体の場所

名古屋城には加藤清正の銅像が2体設置されています。

それぞれ異なる場所にあり、銅像のデザインや意味も違うため、訪れた際にはぜひ両方チェックしてみてください。

能楽堂前の銅像

1つ目の銅像は、名古屋城の正門近くにある能楽堂前に設置されています。
この銅像は名古屋城の入場券を購入しなくても、外から見ることができる場所にあるのが特徴です。

鎧兜を身にまとい、槍を手に持つ勇ましい姿は、まさに加藤清正らしい雄々しさを感じさせます。

ただし近くに詳しい説明板がないため、何の銅像か分からず通り過ぎてしまう人も多いので注意してください。

東南隅櫓近くの清正石曳き像

2つ目の銅像は、名古屋城東南隅櫓の近くにある「清正石曳き像(きよまさいしいしひきぞう)」です。

こちらは加藤清正が大石を運ぶ人々を前で指揮し、鼓舞している様子が表現されています。

銅像のすぐ隣には木製の説明看板が立てられているため、どのような場面を表しているのか一目で理解できるでしょう。
力強く指示を出す清正の姿からは、築城奉行として人々をまとめあげた指導力やカリスマ性が伝わってきます。


加藤清正にゆかりのある愛知のスポット

名古屋城だけでなく、愛知県内には加藤清正にゆかりのある場所がいくつかあります。
その中でも代表的なのが、清正が幼少期を過ごしたとされる津島市です。

津島市の妙延寺(みょうえんじ)

津島市には、加藤清正が幼少期に読み書きや手習いを学んだと伝えられる妙延寺があります。

清正は元々、尾張国の出身であり、この地で幼少期を過ごした後、豊臣秀吉に仕えるようになりました。

妙延寺には「清正公堂」というお堂があり、加藤清正を祀る清正公社もあります。

地元では「清正公さん」と呼ばれ、今でも地域の人々から親しまれている存在です。

鬼祭と清正公社

また津島市では、かつて「鬼祭」と呼ばれるお祭りも行われていました。

この祭りは、賊を追い払うために鬼面をかぶった親鬼を中心に行われる行事で、加藤清正が鬼面を使って戦ったという伝説に基づいていると伝わっています。

現在ではこの鬼面が、津島市の清正公社に伝承されており、加藤清正と鬼祭のつながりを今に伝えています。

このように、愛知県内には加藤清正の足跡や伝説が色濃く残っているスポットが点在しています。

名古屋城を訪れた際には、こうしたゆかりの地にも足を運んでみると、歴史の面白さがさらに深まるでしょう。


名古屋城のおもてなし武将隊で会える清正公

名古屋城には、歴史を盛り上げてくれる「おもてなし武将隊」というPR大使がいることをご存知ですか?

このおもてなし武将隊は、名古屋城や名古屋の魅力を広めるために結成された武将エンターテイメント集団です。

おもてなし武将隊とは?

おもてなし武将隊のメンバーは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、前田慶次、加藤清正など、戦国時代に名を馳せた武将たち。

さらに、太助、踊舞、十吾、なつといった忍者や足軽のキャラクターも加わり、総勢10名で活動しています。

彼らは毎週土曜・日曜・祝日に名古屋城で「おもてなし演武」を披露しており、歴史上の一場面を殺陣や芝居、ダンスなどで表現します。

迫力ある殺陣や華やかな演舞は、歴史に詳しくない人でも楽しめる内容で、見応え十分です。

加藤清正の活躍

もちろん加藤清正もメンバーの一人として活動しています。

名古屋城築城に貢献した武将として、演武の中でも堂々たる存在感を放ち、観客を盛り上げています。

彼らおもてなし武将隊は、グッズ販売やDVD化もされるほど人気があり、なんと経済効果は20億円以上とも言われています。

名古屋城を訪れた際には、ぜひ演武を見学して、お気に入りの“推し武将”を見つけてみてください。


【まとめ】名古屋城と加藤清正の深い関わり

今回は、名古屋城に加藤清正の銅像が建てられている理由や、清正石の伝説、そしておもてなし武将隊での活躍まで詳しく解説しました。

名古屋城の築城主は徳川家康ですが、加藤清正は築城奉行として石垣工事を指揮し、わずか3ヶ月で完成させたと言われるなど、その貢献度は非常に大きなものでした。
また、巨大な「清正石」を運んだという伝説も、清正公の豪快なイメージをさらに強めています。

城内には能楽堂前と東南隅櫓近くに2体の銅像があり、それぞれ異なる姿の清正公を見ることができます。
さらに津島市や妙延寺など、愛知県内には加藤清正にゆかりのあるスポットも多く残っています。

名古屋城を訪れる際には、金のしゃちほこだけでなく、加藤清正の銅像や清正石にも注目してみてください。
きっと、歴史の奥深さと彼の偉大さを感じられるはずです。

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