宮古島から伊良部大橋を渡った先にある離島、伊良部島。
伊良部大橋が開通して以来、リゾート化が進んでいる注目の離島です。
その他にも漁業が盛んで、漁師町としても知られています。
そんな伊良部島に島流しの歴史があったことをご存知ですか?
今回は伊良部島の歴史について調べてみました!
Contents
伊良部島とは
宮古島本島から約3,5kmほど離れたところにある離島です。
以前は伊良部島の佐良浜港と宮古島本島の平良港との間で定期航路がありましたが、2015年1月31日に橋が開通して廃止になりました。
人口は約5000人の小さな島で離島らしい穏やかな空気が流れています。
隣接する下地島には下地島空港がありとても便利になりました。
伊良部島の歴史で島流しがあったのは本当?
島流しとは罪を犯した罪人を遠く離れた不便な離島などに送る刑のことです。
罪人の生きる気力を奪い、罪を償わせることを目的として行われていたそうです。
島流しのことを別名「流刑」とも呼びます。
流刑になった罪人は慣れない土地での不便で厳しい生活を強いられることに。
一度島流しにあうと特別許可が出ない限り、二度と故郷へ戻ることができないという過酷な刑でした。
いつころ行われていたの?
本土では900年代にはすでに行われていたようです。
場所は伊豆諸島や八丈島など様々です。
沖縄では琉球王朝時時代に島流しが行われていたそうです。
どこに流されるの?
沖縄本島から遠く離れた宮古島、石垣島が主な流刑地とされていました。
どのように島を使い分けていたかと言うと、罪の重さによって島流しされる場所が決まったそうです。
政治的犯罪を犯した者は石垣島。
その他の犯罪を犯した者は宮古島。
そして凶悪犯は伊良部島に流されました。
そのような罪人たちが集まり栄えていった島が宮古島、伊良部島とされていたみたいなんです。
文字で見ると凄まじい歴史ですよね。
では宮古島、伊良部島の人はそんな罪人のような人ばかりなんでしょうか?
答えはNOです!!!!!
今回は宮古島の人々が海外の船を助けた話を紹介させていただきますね。
うえのドイツ文化村ができた理由
宮古島にはドイツ村という施設があります。
潜水艦で海底を見ることができたり人気の観光スポットです!
なぜ宮古島なのにドイツなの?
不思議ですよね。
それにはちゃんとした理由があるんです!
明治6年にドイツの商船「ロベルトソン号」が中国からオーストラリアに向かう途中に台風に遭遇しました。
漂流を続けていたロベルトソン号は宮古島の沖合で座礁。
これを発見した役人が島からサバニ(小舟)で救出に向かいますが台風の影響で風が強く船に近づくことができません。
救出は無理だと判断し、救助を翌日に延期。
その間中、夜は海岸で火を炊き船員たちを励まし続けたそうです。
翌日、無事に全員救出して言葉が通じずコミュニケーションがうまく取れないながらも手厚く看護をしました。
ロベルトソン号は破損がひどく再生不能状態に。
とても帰れる状態じゃありません。
役人たちがいろいろなところに掛け合いなんとか救出から34日後にドイツへ帰国することができたそうです。
このことから、罪人が多く流された島で野蛮な人が多いなんていうのは大昔の出来事ということがお分かりいただけましたでしょうか。
伊良部島の歴史!島流しは本当にあったの?【まとめ】
歴史を調べてみると確かに宮古島や伊良部島は島流し先として使われていたそうです。
自分が知っている宮古島や伊良部島とのギャプに最初は少しショックな気持ちもありました。
しかし自分が実際に宮古島、伊良部島で出会った人たちを思い出してみるとみなさんおだやかで親切な人ばかり!
散歩をしていたらヤギの餌やりをさせてくれた人だっていました!(笑)
実際に自分の目で見て、感じることの大切さがよく分かると思います。
なんでもネットで調べれば情報が出てくる時代。
ですが体験したこと以上の事実はないと思うのでこれを機会にみなさんも旅行をしてみて肌で触れて、見て、聞いてみてください。